音楽の「影響」①:『音楽学の主要概念』(2nd ed. 2016)より

(2/25夜:読み返して表現がよくないなと思った箇所を書き換えました。)

はじめに

音楽史に関して何かを書くとき、特にピンポイントに誰かやその作品について書くとき、我々は「影響」という言葉を使いがちです。例えば、Wikipediaの「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を見てみましょう。

ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた。

Wikipedia contributors, “ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン,” Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?
title=ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (accessed February 21, 2021).

また、私がもっている論文リストをざっと見ても、以下のような記述は本当によく見られます。私の研究領域に関係のある部分から、影響にまつわる言説を取り出してみましょう。

[ラフマニノフの劇音楽作品の一曲である]プーシキン原作の《ボリース・ゴドゥノーフ》の冒頭の2曲のモノローグは、声楽に朗誦的書法を用いている点で、明らかにムソルグスキーの影響を示している。

B. Martyn. 1990. Rachmaninoff: composer, pianist, conductor. London and New York: Routledge: 56.

後期スクリャービンの音楽は、彼に続く20世紀の「西欧の」音楽文化の旋法和声的思考を全面的な発展に対し、大きな影響をもたらした。長短調のトニックの枷に嵌められた規範の克服、古典的な長短調の機能和声システムの枠から所謂複合的旋法への脱出、安定/不安定、協和音/不協和音、解決や機能的進行といった概念の一新、三全音の機能のより広い理解や「三全音性」というべきもの――これらはスクリャービンの非常に重要な旋法和声における新規軸である。これは「新しい音楽」が作られる際の基礎にもなった。

В. Ю.Дельсон. 1971. Скрябин. черкни жизни и творчества. М., Музыка: 419.

このように、しばしば音楽史のナラティヴの重要な要素として現れる「影響」ですが、あまりにも当たり前に用いられすぎて、その概念の定義はおざなりになっていることが多いように思われます。

加えて、人と人、作品と作品との関係を事実として(あるいは推測として)示す際には、基本的に何らかの資料による裏付けが必要なことと比較すると、影響に対する裏付けは曖昧になるきらいにあります。「誰と誰に親交があった」というためにはそれを示す手紙や日記や回顧録が必要ですし、「作品Aは作品Bよりもあとに作られた」という場合にも、自筆譜などを用いてそれらが書かれた年代をしっかりと特定する必要があります。影響に係る言説の典型例、つまり「aの点で作品Xは作品Yの影響を受けている」[1]これは後日紹介するPlatoff 1988で用いられているモデルです。という主張(あるいは推測)の際にも、何らかの後ろ盾が必要なように思われます。しかし、そもそも後ろ盾にすべき事実はいったい何なのでしょうか。楽曲が類似していることか、後続の作曲家が先行する作曲家に対してもつ愛着か、学習遍歴か……。これだけでもなかなか難しい問題です。この問題を解決しないことには、「XはYの影響を受けた」という言説を成立させるための必要条件は何なのか、そのレベルの理論的支持は曖昧なまま放置されることでしょう。
さらには、影響という事実(推測)によって何が言えるのか、という問題も考える必要があるでしょう。

さて、「音楽学における『影響』」と仰々しいタイトルを付けてみましたが、ここでは音楽学という学問、特に音楽史記述における「影響」について考えている主要論文のさわりを何回かに分けて紹介していきたいと思います。それを通して、音楽史における影響概念の問題点の把握、それを解決する手段、さらなる考察への手がかりが得られることを期待しています。
初回となる今回は、かなり短くはなりますが、音楽に関わる主要概念をまとめた事典的書物『音楽学の主要概念 Musicology: The Key Concepts』(第2版、2016)[2]D. Beard. and K. Gloag (2016). Musicology: The Key Concepts. New York: Routledge.で大項目としてまとまっている「影響 INFLUENCE」の項をサクッと見ていきたいと思います。

「影響 Influence」

著者は音楽学における影響概念の現状を以下のように捉えています。

  • 「影響」は音楽学でしっかりと定義が定まっていない概念である。
  • しかし、音楽史記述では異なる作曲家・作品・時代間に影響が存在すると主張することが多く、作曲家の伝記研究では若い作曲家が誰々の影響を受けたことが容易にわかる、といった主張がしばしばなされている。

ここから筆者は「影響を記述したり特定したりすること」は何を意味するか、という問題に進みます。多くの文献では、「他の音楽と類似している」ということを意味して「影響」という言葉が使われていますが、類似という事実は影響という現象の無意識下のプロセスとはあまり関係がないのではないか、というのが筆者の意見です。

その意見の下支えとなるのが、かの有名なブルームの『影響の不安 The Anxiety of Influence[3]H. Bloom. 1973. The Anxiety of Influence; a Theory of Poetry. New York: Oxford University … Continue readingを始めとする一連の書物に出現する「改訂比率 revisionary ratios」です。ブルームはここで、影響を「誤読 misreading」あるいは「曲解 misprision」[4]羽村貴史氏の訳によります。や「完結と反定立 completion and antithesis」といった概念によって読み解き、説明します。

次に、ブルームの影響理論が音楽学で応用された例が紹介されます。ケヴィン・コーシンの論文「音楽的影響の新しい詩学へ」(1991)とジョゼフ・ストラウスの『過去を作り直す:音楽のモダニズムと調性的伝統の影響』(1990)[5]K. Korsyn. 1991. “Towards a New Poetics of Musical Influence”, Music Analysis 10/1-2, 3-72; J. Strauss 1990. Remaking the Past: Musical Modernism and the Influence of the Tonal Tradition, … Continue readingです。この二冊に関しては今後しっかり読み解いていきたいと思いますので、内容に関してはここでは措いておこうと思います。本項の筆者は彼らの業績は認めつつ、ブルームの理論を音楽的文脈に移し替える際にはもう少し考察が必要ではないか、と提案しています。

最後に、影響に関する研究の現状――ブルームとの理論の接触以後、「影響」に関する研究は行われていない――が概観されます。
「ある作曲家が他の作曲家から影響を受けている」という言説が何を意味しているのだろうか、という問題は音楽学にとって難しいものであり、これを理解・解釈するために、ブルームの他のどこかからモデルを持ってくる必要があるのではないか、と筆者は締めくくっています[6]Further readingとして以下の論文が挙げられています。K. Gloag 1999. “Tippett’s Second Symphony, Stravinsky and the Language of Neoclassicism: Towards a Critical … Continue reading

おわりに

この項はだいたい2ページくらいの短い紙面ではありますが、ポイントはおさえられており、音楽学における影響概念の現状と問題点はざっくり把握できるのではないかと思います。

ブルームの「影響の不安」概念を音楽史記述で用いるためには、さらなる考察が必要だ、という筆者の提言はもっともです。『影響の不安』と『誤読の地図』をお読みになった方ならわかるかと思いますが、彼の「修正比率」は「四半世紀以上にわたって文学者たちを悩ませてきた」[7]羽村貴史 2008「修正比率――誤読理論の基本概念」『小樽商科大学人文研究』 116 (2008/09): 69-75. https://ci.nii.ac.jp/naid/110006839866/.ほどに難解で一筋縄ではいかない概念です。生兵法で挑めば、新たなる「誤読」[8]これもブルーム流の「誤読」を意味していません、念の為。を生むことになるでしょう。このあたり、コーシン、ストラウス、タラスキンあたりの議論を追いながら考えていきたい問題ですね。

本項に不満があるとするならば、本項の中で「結局影響ってなんですか?」という疑問に対する答えが出ていないことです。せっかく項を立てたのだから仮説的でもいいから「影響はこういうもので、こういう後ろ盾があれば影響が成り立っていると推測してもいいんじゃない?」という何かを示しておいて欲しいというのが人情です。このあたりをはっきりと言明できないことも、影響概念の難しさを物語っているようにも思われます。

さて、次回は J. Platoff (1988) 「影響について書くこと:ケーススタディとしてのモーツァルト《イドメネオ》」を取り上げたいと思います。本論で述べられていなかった、「結局影響ってなんですか?」、「影響という概念にどうアプローチすればいいんですか?」という問題に触れられている論文です。今回取り上げた項では何故か取り上げられていないのですが……。
次々回以降はコーシンとストラウスをざっと紹介しつつ、その2つの書物への(めちゃ長い)批評として書かれたタラスキンの「修正を修正する」を読みたいと思います。

References

References
1 これは後日紹介するPlatoff 1988で用いられているモデルです。
2 D. Beard. and K. Gloag (2016). Musicology: The Key Concepts. New York: Routledge.
3 H. Bloom. 1973. The Anxiety of Influence; a Theory of Poetry. New York: Oxford University Press.[邦訳:ハロルド・ブルーム『影響の不安:詩の理論のために』小谷野敦、アルヴィ宮本なほ子訳、東京:新曜社、2004年]. おそらくブルームの独特な「影響概念」に関しては以下も参照したほうがわかりやすいでしょう。 Ibid. 1975. A Map of Misreading. New York: Oxford University Press.
4 羽村貴史氏の訳によります。
5 K. Korsyn. 1991. “Towards a New Poetics of Musical Influence”, Music Analysis 10/1-2, 3-72; J. Strauss 1990. Remaking the Past: Musical Modernism and the Influence of the Tonal Tradition, Cambridge, Mass., and London, Harvard University Press.
6 Further readingとして以下の論文が挙げられています。K. Gloag 1999. “Tippett’s Second Symphony, Stravinsky and the Language of Neoclassicism: Towards a Critical Framework”, D.Clarke (ed.), Tippett Studies, Cambridge, Cambridge University Press.
A. Street. 1994. “Carnival”, Music Analysis 13/2-3, 255-98.
R. Taruskin. 1993 “Revising Revision”, Journal of the American Musicological Society 46/1, 114-38.[邦訳あり。リチャード・タラスキン 2013「修正〈改訂〉の修正」 福中冬子編訳 『ニュー・ミュージコロジー:音楽作品を「読む」批評理論』, 47-84]
Whitesell, L. (1994) ‘Men with a Past: Music and the “Anxiety of Influence”’, Nineteenth Century Music 18/2, 152-98.
7 羽村貴史 2008「修正比率――誤読理論の基本概念」『小樽商科大学人文研究』 116 (2008/09): 69-75. https://ci.nii.ac.jp/naid/110006839866/.
8 これもブルーム流の「誤読」を意味していません、念の為。