大学院のゼミでR. Perry. 2020 “House of Mirrors: Distorted Proportions in Prokofiev’s Piano Concerto No. 1” [1]Rebecca Perry. 2020 “House of Mirrors: Distorted Proportions in Prokofiev’s Piano Concerto No. 1.” Analytical Approaches to 20th-century Russian Music: Tonality, Modernism, Serialism. … Continue reading を読んだ。プロコーフィエフ(プロコフィエフ)のピアノ協奏曲第1番がもつ独特の構造に関する興味深い論考だったのだが、個人的に残念に思ったのが、プロコーフィエフ本人の記述を恣意的に参照していることであった。
論文本体の結尾部分で筆者は、第1番の協奏曲は「純粋なType 3[2]Hepokoski and Darcy 2006 で著者らは、ソナタ形式を5つの型 Type に分類している。Type … Continue readingのソナタ形式ではなく、7部分からなるソナタ・ロンド形式の変形に近い」と主張している。つまり、従来華々しい序奏だと考えられていたものが実はロンドのルフランで、カデンツァ(曰くブリッジだという)を挟んだ次のBセクションは「ソナタ化」されており、それ自体に第一主題・推移部・副次主題・コデッタを含むものとなっている、その後はルフランを経て、アンダンテ・アッサイのCセクション、アレグロ・スケルツァンドのDセクション(本来Aが来るところを変形している)を経て、最後にB→ルフランと来て終わる、ABACDBA形式だ、というわけである[3]See Perry 2020: 66.。この解釈自体は面白く、演奏にも新しい色彩をもたらしてくれるものになるかも知れない。
ただ、この解釈が新しいものだ、また説得力のあるものだと提示するためには、作曲家自身の言説に反論あるいは同意しつつ論を進める必要があったように思われる。もちろん、作者自身の言説が神聖不可侵のものでそれとは異なる解釈をすべきでない、とは言わない。しかし論文中で、プロコーフィエフ自身がピアノ協奏曲第1番に関して何かしらを語ったという事実や、その内容に全く触れられていないという点は、論文を読み進めながらいかにも不思議だと感じた[4]Perry … Continue reading。
本記事では、プロコーフィエフが自作のピアノ協奏曲第1番の構造に関して語った日記の一部を試訳し、この楽曲の構造に関して作曲者自身がどのような意見を有していたのかを示しておきたいと思う。プロコフィエフはこの作品をソナタ形式に基づいて書きつつ、結果としてロンドに近いものになった、と言及している。
以上に長々と書いたが、本記事はPerry 2020を批判したり反論したりすることを主目的とするものではない。昨日モスクワはザリャージエ・コンサートホールで当該曲の素晴らしい演奏を耳にした(ロシア国立シンフォニー・カペラ、ポリャーンスキイ指揮、シーシキン独奏)ことや、自分の中で一旦知識を見える形にして整理しておきたいと思っていたことが、この記事を書かせた契機である。
以下の文章は、プロコーフィエフが書いた日記の一部の引用である。出典は С. Прокофиев. 2002. Дневник. 1907—1918. Paris: sprkfvpp: 173-175.
読んでいただいておわかりいただけると思うが、若手作曲家プロコフィエフの自負心の塊ぶりが伺えて微笑ましい。同時に、プロコフィエフの文章は、明らかにこれはいずれ誰かに(自分自身に?)読ませるためのものなのではないかと想像させる、整った文章である。
<1912年> 8月18日、キスロヴォツク
モスクワとパヴロフスクで自作の協奏曲を演奏しに、7月21日にエッセントゥキ[5]ロシア南部、スタヴローポリ地方の都市。後に言及されるキスロヴォツク、ピャチゴルスクとならび、鉱泉が有名。を出発した。8月13日にママと一緒にキスロヴォツクに戻ってきた。今のところのキスロヴォツクでの過ごし方について。朝、公園でコーヒーを飲み、とても快適な部屋に置いてあるアップライトピアノを貸してもらっているツィンツィナトルの薬局に行き、12時過ぎまでそこにいる。そこでソナタ作品14[6]ピアノ・ソナタ第2番のこと。を首尾よく夢中になって作曲している。ナルザン炭酸水の風呂に入って、ママとスメツコーイ家[7] … Continue readingと昼食を食べに家に帰る。それからマークス[8] … Continue readingと事前に約束してエッセントゥキかピャチゴルスクへ出かけるか、ルースキイ家[9]実業家でアマチュアのチェリストで、ロシア音楽協会の理事会メンバーだったニコラーイ・パーヴロヴィチ・ルースキイ(1865-1927)の一家。と何かを一緒にやったり、公園でチェスを指したりする。
自作の協奏曲作品10を、モスクワで7月25日に、そのあと8月3日にパヴロフスクで初めて演奏した。オーケストラと演奏したのは初めてだったけれど、何にも怖いことはなかったし、逆にとても気持ちよかった。ピアノのパートはよく知っていたが、オーケストラは書かれたパート譜どおりの演奏があまりできていなかった。モスクワで伴奏してくれたのがサラージェフ[10]指揮者のコンスタンチーン・ソロモーノヴィチ・サラージェフ(1877〜1954)のこと。。すべてのテンポをよくわかっており、彼と一緒に演奏するときは僕はかけらも緊張しなかった。パヴロフスクでは緊張した。アスラーノフ[11]指揮者アレクサーンドル・ペトローヴィチ・アスラーノフ(1874〜1960)のこと。はテンポをよくわかっていないし、オーケストラは間違えたし、しかもパヴロフスクにはたくさん知り合いがいた上に、この演奏は僕にとってモスクワでの演奏よりもずっと大事なものだった。これらが全部神経を興奮させたのは間違いない。
モスクワでもパヴロフスクでも、僕は結構な成功を収めた。アンコールを2、3回ずつやった。十数件も批評が新聞雑誌に掲載された。そのうちサバネーエフが可笑しいまでに酷評していただけで、他はみんな才能を認めたり、ある者は不満を言ったり、またある者は大絶賛したり、という具合だった。
間違いなくこの演奏会で、僕は音楽界で羨望の的になる「真の」作曲家になった。
この協奏曲の作曲経緯については以下のとおり。
1910年の夏のはじめに、協奏曲を作曲しようと構想した。いくつかの素敵で創意に富んだパッセージを発見し、提示部にするための素材(それら同士が完全に結びついている、とはまだ行かなかったが)を作曲した。構想したものはとても魅力的で、とある人に演奏したところ気に入ってくれた[12]<原注> … Continue reading。ただその後、夏には《夢》とそれから《秋》[13]それぞれ、交響的図画《夢》作品6と交響的素描《秋》作品8のこと。に取り掛かったので、協奏曲は脇においておくことになった。秋に再びそれに取り掛かり、アンダンテとフィナーレのための素材を作曲し、第1楽章に何かしらを付け足した。作曲している作品に大いに心が沸き立ったが、一音も書き留めなかった。協奏曲は異常なまでに難しいものになりそうだった。
そこである考えが浮かんだ。「誰もが演奏できるような、やさしく、明瞭で、単純な協奏曲を作曲できたらどんなにいいだろう。音楽院でも演奏されればいいのに。」と。僕は協奏曲を「新進の天才」に捧げることにした。難しくてシリアスな協奏曲に並行し、軽快で明るいコンチェルティーノを書くことにしたのだ。すでに1911年春のことだった。壮大な序奏の主題はすぐに思い浮かび、主部には1908年に書いてミャスコーフスキイに献呈した小曲《カーニヴァル》の主題を使った。ハ長調の部分もすぐに書き上がったが、その後作曲は停滞した。《マッダレーナ》に夢中になり、1911年の秋中その作曲に取り掛かっていたからだ。合間合間に休憩としてコンチェルティーノのための素材を作曲しようとしたが、あまりうまくいかなかった。
そのかわり、秋になったら進捗は上々に進んだ。一面に凛々と滾るアレグロの、かなり長い作品が出来上がることになりそうだった。果たしてこんなコンチェルティーノは良いものだろうか? しかも、構想していたような優しく単純な曲ではもうなくなってしまっていたし、中心的な構想もなくなってしまった。アンダンテも入れて、この曲をもっと拡大して、コンチェルティーノではなく協奏曲にしたほうが良いのでは? そのほうがよりしっかりとして、あらゆる面でより良い作品になるのではないか。さらには昨年とりかかった一作めの協奏曲への熱意を失ってしまったこともある。
こうして、コンチェルティーノに挿入されたアンダンテも、スケルツォのような展開部も首尾よく完成し、コンチェルティーノは協奏曲になった。クリスマス期間にはオーケストレーションを施し、1912年の2月には協奏曲作品10は完成した。
音楽家の間では協奏曲は大いに好評だった。誰が気に入ってくれたのかは覚えていないけれど[14]<原注> グラズノーフは、僕は大胆にも下書きの段階で彼の前でピアノを叩いたのだが、気に入ってくれたと思う。。特にチェレプニーンの考えは興味深かった。彼は、この作品が僕の作品の中で最良のもので、健全で生き生きとして、素晴らしいリズムを持つ作品だと言ってくれた。ロシアを訪れたフランスの批評家カルヴォコレッシ[15]ギリシャ系フランス人の音楽評論家、ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシ(1877-1944)のこと。は、僕の協奏曲が、ロシアで見つけた最も興味深いものだと言って、同じく褒めてくれた。この協奏曲を、なぜだか自分自身でモスクワとパヴロフスクで演奏することになった。ジロティに演奏してほしかったのだが、彼は意地悪な言葉でこの作品を非難し、シェーンベルクの作品[16]<原注> シェーンベルクはその時実に忌々しい名前だった。(1915年の筆者の注釈)と同じようなものだと言い放ち、それでチェレプニーンを始めとする僕の支持者たちはカンカンになった。
協奏曲の形式について。
ソナタ形式は形式のアイディアや骨組みとなってはいるが、僕の協奏曲の形式がソナタ形式であるとは絶対に言えないほどに、僕はソナタ形式から逸脱した。
大規模で、素材の面で極めて重要な変ニ長調の序奏の後、ハ長調が続き、ハ長調からもちろんやはりニ長調の主要主題へと続く。続いて、推移部とホ短調の副次主題。短いピアノのカデンツァの後、ホ短調の新しい主題が出現するが、これは締めくくりの性格を持っており、最初の終結部ということができる。その後2つ目の終結部がホ長調で続く。これも締めくくりの性格を持っているが、提示部を終わりへと導くのではなく、その終わりで転調することで導入部の主題へとなだれ込み、その主題が提示部を締めくくる。
序奏の主題を提示部と展開部の間に置くという発想はベートーヴェンにも見られるが、例えば《悲愴》ソナタでみられるように、あまり強固に表現された形ではない。
僕の協奏曲で、その後に続くのは展開部であるべきなのだが、ここでは第4、第5形式のロンドと同じように完全に新しい主題が奏される。この主題はそれ自体で完結しているもので、あたかもアンダンテが引用されているようである。アンダンテに続くのがスケルツォの型の展開部。この展開部は2つめの終結部に基づいており、そこにオーケストラには副次主題、ピアノでは主要主題への推移部分の一部が加えられている。その後最初の終結部から取られたE-Aの跳躍がピアノとオーケストラで呼び交わされ、その後この跳躍進行をバックに主要主題の断片が急に現れる。オーケストラが展開部を終わらせると、再現部となりピアノが長いカデンツァで主要主題を演奏する。より新鮮さを出すために、変ニ長調の代わりにハ長調となっている。主要主題の後に推移部がきて、オーケストラが副次主題を演奏して入る。このとき同時にピアノは副次主題と最初の終結部が交互に続く自由な対位法を演奏する。その後、ピアノが2つ目の終結部を演奏するが、提示部と同様に序奏の主題へと導く。協奏曲は序奏の主題で幕を閉じる。この主題のような重みのあるエピソードが3度(冒頭・中盤・結末)繰り返されることで、作品全体の統一感が達成されている。
L. V. ニコラーエフは、この協奏曲は全体として統一されたものではなく、いくつかの独立した部分がうまく寄せ集められ、巧みに縫い合わされているようだ、と言っている。そうなのだろうか?
協奏曲を作曲するときに非常に心を砕いていたのは、ピアノが常に申し分なく聞こえ、オーケストラと組み合わせた際によく響くことである。この点は上手くできた。その一方、純粋なピアノ作品としての意味では、ピアノ・パートははあまり面白くないところもある。その代わり、オーケストラと組み合わさると、とても効果的に響き、印象に残るものとなる。
References
↑1 | Rebecca Perry. 2020 “House of Mirrors: Distorted Proportions in Prokofiev’s Piano Concerto No. 1.” Analytical Approaches to 20th-century Russian Music: Tonality, Modernism, Serialism. Eds. by Inessa Bazaev, Christopher Segall. New York: Routledge: 54-70. |
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↑2 | Hepokoski and Darcy 2006 で著者らは、ソナタ形式を5つの型 Type に分類している。Type 3のソナタ形式は一番よくあるソナタ形式で、提示部・展開部・再現部を有する。ちなみに、Type 1は展開部を欠くソナタ、Type 2は完全な再現部を欠くソナタ、Type 4はソナタ・ロンド、Type 5は協奏曲の第1楽章の形式。個人的な備忘録も兼ねて……。 |
↑3 | See Perry 2020: 66. |
↑4 | Perry 2020の注では、以下の引用部分のうちベートーヴェン《悲愴》に関する部分が断片的に引用されて言及されており、それだけに他の本質的に思われる箇所に触れていないことが不自然に思われる。 |
↑5 | ロシア南部、スタヴローポリ地方の都市。後に言及されるキスロヴォツク、ピャチゴルスクとならび、鉱泉が有名。 |
↑6 | ピアノ・ソナタ第2番のこと。 |
↑7 | プロコーフィエフの母の幼少期からの友人オーリガ・ユーリエヴナ・スメツカーヤ(1857-1940)とその夫ニコラーイ・ニコラーエヴィチ・スメツコーイ(?-1931)の夫婦 |
↑8 | マクシミリアン・シュミットゴフ(1892-1913)の愛称。ペテルブルク音楽院のピアノ科で学ぶ学生で、プロコーフィエフの親友で、カントやショーペンハウアーといった哲学者の著作を進め、二人はのちそれらについて話し合った。1913年にの4月27日にプロコーフィエフ宛に「最後のニュースを伝える。僕は拳銃自殺した。……理由など大したことではない」という手紙を残し、彼に深い衝撃を与えた。この一連の事件に関しても、プロコフィエフは日記を書いている。 |
↑9 | 実業家でアマチュアのチェリストで、ロシア音楽協会の理事会メンバーだったニコラーイ・パーヴロヴィチ・ルースキイ(1865-1927)の一家。 |
↑10 | 指揮者のコンスタンチーン・ソロモーノヴィチ・サラージェフ(1877〜1954)のこと。 |
↑11 | 指揮者アレクサーンドル・ペトローヴィチ・アスラーノフ(1874〜1960)のこと。 |
↑12 | <原注> このパッセージ素材は(右手と左手で順々に演奏される)並行三和音によるもので、その後協奏曲第3番の第1楽章に組み込まれた。(プロコーフィエフによる注釈) |
↑13 | それぞれ、交響的図画《夢》作品6と交響的素描《秋》作品8のこと。 |
↑14 | <原注> グラズノーフは、僕は大胆にも下書きの段階で彼の前でピアノを叩いたのだが、気に入ってくれたと思う。 |
↑15 | ギリシャ系フランス人の音楽評論家、ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシ(1877-1944)のこと。 |
↑16 | <原注> シェーンベルクはその時実に忌々しい名前だった。(1915年の筆者の注釈) |